柳川を知るなら《どんこ舟》で川下り
福岡市から来るまで1時間余り、有明海に面する城下町「柳川」を訪ねました。柳川の中心街は掘割(※1)が縦横に張り巡らされた水路のまちです。
柳川観光のメインは何といってもこの堀を巡る川下り。西鉄柳川駅近くの乗船場から出発し、どんこ舟(※2)にゆられて、七曲り、七巡りして下りながらお堀と共に暮らすまちの情景を楽しむことができます。
どんこ舟に乗るときは少し揺れますが、お堀は水の流れがほとんど無いので、船頭さんの棹〈さお〉のひと押しで水面をスーッと滑るように進んでいきます。
岸辺には、なまこ壁(※3)や煉瓦造りの蔵。家々からお堀の汲水〔くみず〕場に続く石段。白秋の歌碑や、日本の道百選に選ばれた散歩道もありました。
また、大小さまざまな橋も見どころです。川幅の狭い橋もあれば、頭を低くしてくぐる橋も…。
船頭さんの語りに耳を傾け、垂れ下がる柳や樹々が水面に映える水路を抜けて終点へ。心地よい風に吹かれながら、あっという間の70分でした。
※1:地面を掘って作った水路のこと
※2:柳川川下りで使用される舟のことでハゼ類の魚《どんこ》に似ていることから名前が付いた
※3:壁塗りの伝統様式の一つ。格子の盛り上がった漆喰の目地の形が海鼠〈なまこ〉に似ていることから名前が付いた
弥兵衛門橋〈やえもんばし〉
柳川城、三の丸に入る北の門の橋でした。川幅より橋を短くし、下の方を狭く造っているのは、水を滞留させ緩やかに下流に流す働きがあります。
水上売店
どんこ舟を横付けして飲み物などが買える水上売店。隣には「うなぎ供養碑」があります。
柳川古文書館
川下りを出発してまもなく柳川古文書館の横へ。掘割沿いは柳の並木が続きます。水郷柳川らしい風景です。
十時邸〈とときてい〉
赤茶色の屋根が城下町名残を伝える武家屋敷「十時邸」。その手前には白秋の「まちぼうけの碑」があります。
出逢い橋
立花邸の松濤園〈しょうとうえん〉に渡る出逢い橋。両岸の樹木と弧を描いた木の橋が魅力的なスポット。
立花家史料館
伝統のなまこ壁が目を引く建物は立花家史料館。「我つひに 還り来にけり 倉下や 揺るる水照の 影はありつつ」白秋の歌碑があります。
深堀りコラムその1
堀割の巡るまち
柳川のまちは堀割が縦横に巡っています。江戸時代初期に筑後柳川城主となった田中吉政公によって城の防御、治水、利水のため整備されました。柳川は有明海沿岸の湿地帯だったので、堀割を掘ることで土地の水はけをよくし、堀割を巡らせることで水の確保ができたのです。
昭和40年代になると生活排水によって堀割の水質が悪化、埋め立てる計画が持ち上がりました。しかし、1人の役人が市長に「堀割をなくしてはならない」と訴え、先人の知恵と努力を無駄にすまいと、市民ぐるみで浄化作戦を展開。その郷土の堀割を守った話は、ジブリ映画で知られる高畑勲と宮崎駿が初めて挑んだ実写映画になりました。
堀割沿いにある汲水場。昭和初期までお堀の水が生活に利用されていました。
川下り途中で舟から見ることができる田中吉政公像
御花で庭を愛で贅沢ランチ
舟を降りて、柳川で最も人気の観光スポット、「柳川藩主立花邸御花」へ向かいました。ここは柳川藩主立花家五代目、立花貞俶〈さだよし〉が家族と過ごすために設けたお屋敷です。当時この辺りは、御花畠といわれていたことから、地元の人たちは親しみを込めて「御花」と呼ぶようになりました。
明治になると立花家は伯爵となり、迎賓館の「西洋館」、「大広間」や現料亭などの和館、クロマツに囲まれた池庭「松濤園」が造られました。平成23年に御花の全敷地7千坪が「立花氏庭園」として国の名勝に指定されたそうです。
柳川の出身者にとっては、日吉神社で式を挙げ、花嫁舟に乗って御花へ向かい、ここで婚礼の祝宴を開くのが憧れだとか。
御花で贅沢ランチを楽しんだ後、その日吉神社にお参りしてきました。
夜は季節限定の「灯り舟〈あかりぶね〉」に乗船。今年は感染防止のため貸切舟で10月まで運行されています。昼間とはまた違う幻想的な川下りをぜひ体験してみてください。
深堀りコラムその2
復活の大名 立花宗茂〈たちばなむねしげ〉
戦国武将 立花宗茂は、豊後大友氏家臣 高橋紹運の長男として誕生。15歳で豊後大友氏重臣の戸次道雪の娘誾千代〈ぎんちよ〉と結婚、婿養子として立花城主になります。
宗茂は若くして戦に長けた名将でした。豊臣秀吉の九州平定の際、島津軍を撃破。功績が認められ、筑後十三万石の城主となり柳川に城地を定めました。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍(豊臣側)に味方し、宗茂は領地を没収されて浪人に。柳川は田中吉政を城主に迎え城下町の基礎が築かれますが、世継ぎが途絶えてしまいました。そして1620年、徳川家の信頼を取り戻していた立花宗茂が再び柳川城主へ。2020年は立花宗茂、旧領復帰400年の節目です。
立花家史料館には立花家の柳川藩主時代、伯爵家時代の美術工芸品を収蔵。
おいでめせ、柳川
柳川の魅力を探索する
「おいでめせ」とは、柳川の言葉で「ようこそ」、「いらっしゃい」という意味。
930kmに及ぶ掘割が市内を縦横に巡る柳川では街の文化を感じられる建物が人々の営みとともに存在しています。
是非、街を歩きながら風土や伝統、そして歴史を感じてみてください。
- 三柱神社
- 道雪、宗茂、闇千代を祀る。
- 西鉄柳川駅
- 昭和12年
九州鉄道柳河駅として開業。 - 並倉
- 煉瓦造りの老舗味噌蔵。
国の登録有形文化財。 - 福厳寺
- 立花家の菩提寺。
- 柳川城址
- 難攻不落と言われた柳川城だったが明治5年に消失。石垣のみが残る。
- 日本の道百選
- 川下りコースの堀割沿いを散策できる「水辺の散歩道」。
近代日本の天才詩人
北原白秋
赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い
あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな
誰もが耳にしたことがあるでしょう。
時を超えて歌い継がれる童謡を作詞したのが、北原白秋です。
詩、童謡、短歌など巧みな言葉の表現で近代文学史に功績を残しました。
油屋のトンカジョン
白秋(本名 隆吉)は1885年(明治18年)柳川藩御用達の海産物問屋、のちに酒造業を営んでいた北原家に生まれました。
屋号を「油屋」または「古問屋」と称していたので、人々は白秋のことを「油屋のトンカジョン※(大きな坊っちゃん)」と呼んでいました。
少年時代を漁港のある沖端の家で過ごしますが、16歳のとき家が大火に遭います。白秋は傷心を癒すが如く詩歌の創作に没頭しました。
19歳になり父の反対を押し切って上京し、早稲田大学に入学。大学の雑誌の懸賞で応募した詩が入選し、与謝野鉄幹に見いだされることに。文芸雑誌『明星』を発行する新詩社に迎えられ、文学青年たちと交流を深めます。
22歳のとき与謝野鉄幹が率いる5人で九州の旅へ。その紀行文は『五足の靴』として知られています。
その後、高村光太郎、谷崎潤一郎、石川啄木らと耽美派文学の運動拠点となる「パンの会」に加わります。
24歳のときに華麗で耽美な処女詩集『邪宗門〈じゃしゅうもん〉』、2年後に故郷への想いを綴った情感豊かな詩集『思ひ出』を発表。若き青年白秋は、一躍詩壇で注目されるようになりました。
新たに童謡の世界へ
28歳になると歌集『桐の花』を出版。
33歳のときに鈴木三重吉の子どもたちの心を育みたいという信念に共鳴、児童雑誌『赤い糸』創刊に携わり、数々の童謡を創るなど活躍の幅を広げました。
作曲家山田耕筰との出会いから、「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」「ペチカ」などタッグを組んだ名作童謡が次々と生まれます。
柳河は我が詩歌の母体
晩年は糖尿病と腎臓病を患い、合併症で視力をほとんど失います。しかしながら創作は精力的に続けました。
1942年(昭和17年)11月2日に永眠。享年57歳。絶筆となった写真家田中善徳と共作の写真集『水の構図』に、白秋は「水郷柳河こそは我が詩歌の母体である」と述べています。
生涯で2万点以上もの作品を残した、北原白秋。言葉の魔術師と呼ばれるほど詩、短歌、童謡など形式にこだわらず、美しく言葉を操り自由に表現した人でした。
北原白秋生家・記念館
福岡県柳川市沖端町55-1
TEL:0944-72-6733
入場料:大人600円・小人250円・学生450円
開館時間:9:00~17:00 ※状況により変更する場合があります
休館日:12月29日~1月3日
ウェブサイト:http://www.hakushu.or.jp/hakushu_hall/