博多から新幹線で約1時間半、鹿児島中央駅へ降り立つと「若き薩摩の群像」が出迎えてくれます。
江戸時代に幕府が海外渡航を禁止していたにもかかわらず、薩摩藩が極秘に英国へ派遣した留学生使節団の銅像です。この事実からも薩摩藩が幕府に先駆けて世界に目を向けていたことがわかります。
駅から歩いてすぐのところに「維新ふるさと館」がありました。明治維新のすべてがわかる歴史観光施設です。鹿児島は「篤姫」や「西郷どん」など大河ドラマの舞台にもなったので、幕末維新期を生き抜いた薩摩の偉人たちの活躍を知るにはおすすめです。
次に向かったのは「仙巌園」。鹿児島中央駅から車で約20分、薩摩藩主島津家の別邸です。昨年秋、園内に「鹿児島 世界文化遺産オリエンテーションセンター」がオープンしました。
今回は仙巌園の学芸員岩川さんに案内していただきました。
薩摩藩が幕末維新期に存在感を発揮することができた、その理由がわかるのが、世界遺産になった集成館事業です。島津家28代斉彬は「仙巌園」のあるこの一帯に日本最初の洋式工場群「集成館」を設置しました。
当時江戸幕府は鎖国を行っていましたが、長崎の出島や薩摩藩領の琉球では対外貿易を認めていました。そのため薩摩藩は外国と接する機会が多くあり、開明派の斉彬は、世界の動きをいち早く捉えることができたのです。迫りくる欧米列強の脅威に対し、強く豊かな国づくりが必要と考え、大砲の鋳造や造船など産業の近代化・工業化を進めたのでした。
斉彬が亡くなると、集成館事業は縮小。しかし、生麦事件がきっかけで薩英戦争が起き、圧倒的な力の差を目の当たりに。薩摩藩は再び近代化の重要性に気づかされたのでした。
1年半後には、トーマス・グラバーの協力を得て若い薩摩藩士たちをひそかに英国へ留学派遣。同行した新納久脩、五代友厚は紡績機械の購入や技師派遣の交渉にあたりました。
「鹿児島 世界文化遺産オリエンテーションセンター」では、斉彬が着手し、薩摩藩が手掛けた集成館事業の概要を知ることができます。
次は、鉄を溶かして大砲を造るための「反射炉跡」を見学し、「尚古集成館」へ。ここは斉彬の意思を継いで建築された「旧集成館機械工場」で現在は博物館です。西洋から優れた機械を取り入れて近代化を図ろうとしたことが伝わってきます。
その隣には明治初期に途絶えていた薩摩切子の技術を100年ぶりに復活させた「薩摩切子工場」があります。
そこから歩いて2分、「旧鹿児島紡績所技師館」(異人館)へ。紡績所建設にあたり、招待したイギリス人技師たちを住まわせる宿舎でした。
機織技術を持っていた薩摩の人たちはすぐに洋式の紡績技術を修得。明治になると、その技術は富岡製糸場など全国の紡績工場へ広まっていったそうです。
さて再び「仙巌園」に戻り、島津家の歴史ある庭園を散策しました。島津家19代光久によって万治元年(1658年)に築かれた、1万5千坪の広大な敷地面積を誇る別邸です。幕末から明治にかけては薩摩の迎賓館としての役割も果たしました。
とくに、桜島を築山に、錦江湾を池に見立てて造園されたスケールの大きさは見ごたえあり。「御殿」の「謁見の間」に招かれた賓客も、その雄大な光景を楽しんだと思われます。
仙巌園は「篤姫」や「西郷どん」のロケ地にもなりました。ドラマを見た方なら見覚えのある場所に気づくのでは。広い庭園内には「猫神」や「水力発電用ダム跡」などユニークな見どころもたくさん。仙巌園をめぐるだけでも島津家と薩摩藩の英知と先進性を感じることができます。
ぜひ鹿児島へおじゃったもんせ(いらっしゃいませ)!
在来の伝統文化と西洋の技術を融合させ、わずか50年余りの短期間に成し遂げた日本の産業革命の功績を示す産業遺産群です。構成遺産は全国8県(福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、山口、静岡、岩手)11市にわたります。
さつまあげ、黒豚、さつまいも、きびなごの刺身、焼酎など鹿児島名物はいろいろありますよ!